2006-04-18

かたる

カタルという語の意味について大野晋の考えでは平安時代に4つの使い方があった。
1、内密のことを、秘密を相手に打ち明ける。
2、相手の知らない状態、内情を報せる。
3、事柄の成り行きを、順を追って話す。
4、作為的な言葉を使う。
これらの分析はハイデガーがホメロスの表現にオデュッセウスの覆蔵性を見た記述を想起させる。
かたるという語の背後には人類の根本的な問題が存在している。

2006-04-02

天体観測で暗号鍵共有

天体観測で暗号鍵共有という特許はコメントにもあるとおり「何時何分何秒からの信号を使ってね、ってのを何らかの方法で共有せにゃならんので、結局公開鍵暗号にある程度依存することになるんでしょうね。」と私も思った。ところが、回答では「OTPの場合、「何時何分何秒からの信号を使ってね」に相当する情報は、公開しても安全性に影響しません。(乱数表自体は公開してはまずいですが)逆に、乱数表が公開された状態で、「何時何分何秒からの信号を使ってね」に相当する情報を隠しても、通常は、簡単にクラック可能ですね。」ですと。
しかし、乱数表の情報源である天体観測データの基準が公開されても安全性に影響しないというところに矛盾が潜んでいる気がします。よくわからない。

2006-03-26

息の長いHTML

息の長いHTMLという考え方に改めて神崎さんの思考の鋭さを垣間見ました。W3Cにかかわっている人は当然このような考え方をベースに活動をしておられるのでしょうが、素人の私などには非常に新鮮で時間を超える仕組みはなにが必要かを改めて考えさせられました。
これは、つまるところグーテンベルク以来の文字資産(画像も含めて記述されたもの)は普遍性のある規準に乗せないと時間の試練に耐えられないということを言っておられると思います。
一方、DNAのアナロジーで「歴史の事実」というものは存在せず、あるのは現在における解釈(過去の解釈)の積み重ねだという考え方へ歴史哲学はシフトしていっているようにも思われます。この2つの考え方の折り合いがインターネットの世界では非常に重要になってきているという思いを改めていだきました。
同様の問題は結城さんの昨日のBLOGで「でもC.S.ルイスはそれを書かない。書いてしまったら、その物語を制約してしまうから。それと同じように、私たちのこの世の歴史全体が表紙に過ぎないような物語が、私たちの人生の先にある。」と書かれています。一方では書こうとしている、一方では書くことを拒否している。究極の矛盾と思えます。
私の理解は現在という瞬間だけで消え去ってしまうということで(口頭でその場限りで)よいのではないかということです。

2006-03-05

梅の花(大阪城梅林)
今日は穏やかな日和で大阪城の梅林を見にいきました。大変な人出でのそのそと進みながらやっと写真をとりました。
知人に出会ったりして楽しい1日でした。

2005-12-01

顔と表情は分離できるのか。
能面の意図。
そもそも顔とは表情ではないのだろうか。表情はまさに今、目の前で生きている人そのものだ。鏡の前であれば、自分の顔は生きている自分だ。生きているということが表情の真実であるし、表情のない顔はありえない。能においてもさまざまな表情の在りようを表現する究極の手段に能面が機能を発揮する。
表情の豊かさはまた、目の前の人の関心が豊かな周囲の環境、社会へ向いていることを示している。生きているということの証しが表情に表れる。

2005-11-30

制作するということ

ものをつくる、制作するということは言葉で考え、記述することではない。ひとはものをつくるときに、場合によっては道具を使う。しかし、道具を使うことで経験をどうにかすることができるものではない。経験はコントロールできるものではないから。
そして、ものをつくるときはどんなものができるか本人にもわからない。やってみなければわからない。科学するということはこの「やってみてわからないこと」に近い。
できたものを見てあれこれ考えたり、評価したり、利用したりするのは第三者だ。もしくは、自分であっても既に制作したときの自分ではない第三者だ。ここに行為のもつ不思議な力がある。

2005-11-26

がまんする

がまんするということは夢をもっていることと同義だ。うまくいかない事態に遭遇したとき、こんなことでは終わらない、へこたれないという意味で自らを励ますときと、どうせどうのこうの言っても同じ結果だというあきらめのときがある。そして、がまんという言葉の語感には積極的な響きがある。思いを内に秘めて、次なるチャンスを待つという意思がある。集中力を高め、その場で対決せず、じっくりとときを待てる余裕がある。

2005-11-08

想い出

想い出はどれだけ古くても今という時をきざんでいる。
今、目の前に想い出が現前すると想い出は想い出でなく、現実の出来事としてたちまち姿を現す。年寄りが想い出ばかりを繰り返し話すのも、今、この時に目の前に想い出の楽しい一瞬が現前するのを夢見て話すのに違いない。夢の夢たる所以もそこにある。

2005-09-18

かなしさ

かなしさは、互いに共振するものが見当たらないとき、解決策の見当たらないときに突然訪れる。なぜわからないのか、相手の力の誇示、拠ってたつ根拠、言葉の意味、あふれる情感をあざわらうかのように壁となって立ちはだかる社会が、約束が、法令がかなしさを倍化させる。冷静にコントロールされた頭脳にも理解の及ばないかなしさ。人がかならず経験する感情のたかまりが、かなしさの背後に厳然と存在する。そして、ほとんどすべての人がこの悲しさの経験を糧に残りの人生を過ごしているのだ。勝者にはわからないかなしみの中で。

2005-09-10

合理的であること

合理的であることは正しいことと同義だろうか。
合理的にものごとを判断することは正しい判断となるだろうか。現代の生活環境では合理的にものごとを決め、判断していかないとますます住みにくくなるという現実がある。年寄りには世の中が狭くなっていく実感がある。これはどういうことだろう。合理的なしかけがそれを利用する人と利用しない人を分割し、階層化しているわけだ。情報が遮断され、利便性から取り残されるために世界が狭くなっていく。合理的というしかけの中には合理的でないという範疇がかならず含まれる。ここに問題の発生の原因がある。

2005-04-18

又兵衛桜


matabeisakura Posted by Hello
又兵衛桜の威容

2005-04-09


cherry tree Posted by Hello

さくら


今日は近所の川沿いに散歩をしたが、ちょうど桜が満開できれいな花を咲かせていた。

2005-03-06

水は生命の根源にある。それは地球が酸素を多く含む惑星ということとつながっている。水は生物の体を形成し、食物連鎖を構成し、空気中の酸素を取り込んで腐敗をもたらし、あらたな生命の準備をする。燃焼のエネルギーというかたちで効率的ではないが循環を構成する。水の不思議さはその存在の態様にもある。流体の自由さはそのもっとも奔放なかたちでわれわれの前に姿をあらわす。ミッシェルセールも、鴨長明も水に意思を感じたにちがいない。

2005-02-21

消化力

生命はなんでも消化し、自らの栄養にしてしまう。量的に適度に吸収し、十分消化に時間をかければ自分のものにしてしまう。荒廃した大地も、水さえあれば生命が生れ、繁殖する。植物が生育すれば、小動物が生れ、食物連鎖にしたがって大きな動物も生活できるようになる。この自然のバランスが崩れると生命は生存が危うくなる。ほとんどの有機物、無機物は生命にとって必要なものとなっている。大量に摂取すると毒になるものでも適度にとれば、長命をもたらす。

2005-02-19

認識と操作

混沌とした環境に人類固有の整理分類を行うには言語が密接にからんでいる。世界の範疇化に語彙の多様性があるように範疇を操作する文法にも多様性がある。「ワケル」という分類行動は「ワカル」ことによって固有の様式を生み出し、価値観、意味づけ、イメージ、知識、経験がむすびついていく。言語にはこうして文化が埋め込まれる。言葉とそれを操作する規則を共有するだけでなく、範疇にむすびついた文化の共有があってはじめて相手の行動や反応を予測しうる。

2005-02-15

春が近いです

近所の川の土手で桃の花が咲いているのをみつけて近づいて1枚。背中側を車が相当なスピードで走り抜け、危ないのですぐ立ち去りました。

2005-01-22

次元を貫く情報

重力波が宇宙のどこかで生じれば、空間のゆがみとなってわれわれの地球にも伝わるはずだ。これは、宇宙が閉じた系であるという前提を記述したからで、そのコンテクストを外部から鳥瞰するには外部からの情報がこの宇宙に到達しなければ不可能だ。はたして、情報は来るのか。あるいは来ているのか。あるいは既に来ていたのか。わずかな差異も見逃せば永久に謎となってしまうであろう。

2005-01-21

知覚の統制

覚醒した知覚は常に現実という規制によりチェックされているが、夢は統制を受けていない。外的刺激を受けない世界はひとつの閉じた空間だ。これを客観的に見ることのできる観測者は、外部にいる。卵子が受精する瞬間、その位置は外部からの全く新しい情報となる。分割はここにはじまる。

2005-01-10

ヒヨドリ

マンションのベランダにすずめ(ビタキ)がよくくる。ちぎって置いたパンくずなどを見つけると2~3羽が食べにくる。
人間が近づくと逃げるけれども、物陰からじっと見ていると時には親子で食べに来ている。
平和に食べているのをじゃまするのは、ヒヨドリ。やかましいし、いじわるだ。だから、我が家の家族はヒヨドリがきらいだ。